世界初「仮想現実(VR)術後せん妄擬似体験」が目指す看護の未来 ― 患者さんの苦しさを理解し、身体拘束ゼロを目指す試み ―
- 公開日: 2026/1/30
せん妄症状がもたらす患者さん・家族への影響
せん妄は全身麻酔の術後に集中治療室(ICU)に入室した患者さんに多く見られる急性で一過性の認知機能障害であり、患者さんの苦しさや混乱が身体的・精神的負担として強く現れる症状です。せん妄は注意力や意識が一時的に変動し、天井に多量の虫が出現したり、存在しない人物があたかも間近に存在するかのように見えたり、周囲の状況が理解できなくなったりする状態が出現します。このようなせん妄症状の出現は、患者さんにとって大きな不安と孤独をもたらします。これらのせん妄患者さんが実際に経験しているせん妄の症状を医療従事者が理解することは困難でした。座学で学んだり、参考書を読み、単に情報として学んでも十分には理解しにくい現状がありました1)。
私は臨床看護師時代に精神科と大学病院の外科病棟での経験から、多くのせん妄患者さんに遭遇してきました。そこでは幻覚に悩まされ、苦しまれている患者さん本人、せん妄発症を機に認知症を発症してしまったと勘違いされてしまい、動揺される多くの家族に遭遇してきました。そこで無力感を感じた臨床看護師時代からの思いから私は大学教員になってから約16年間一貫して術後せん妄の研究に取り組んできました。
VR術後せん妄擬似体験システムを開発に至った理由
せん妄が臨床現場で特に重要視されるのは、DPCに直結する患者さんの在院日数や転帰、さらには死亡率にも影響を与えるためです。急性期医療においては、せん妄の発症そのものが治療や回復遅延に影響するだけでなく、患者さんの身体拘束や鎮静薬の使用といった対応が必要になる場合もあります。こうした対応は、医療従事者側の都合による安全確保のためであっても、患者さんにとっては更なる身体的・感情的負担を生じさせることがあります。
私は臨床で患者さんとかかわる中で、せん妄患者さんの行動がしばしば「不可解な行動」として捉えられてしまう場面に遭遇してきました。しかし、その「不可解な行動」の背景には、本人なりの理由があることに気付きました。患者さん自身が、自分が置かれ認識している世界を理解することが困難であり、本来は見えない不気味な幻覚と戦い、恐怖にさらされている現実があるのです。そのようなせん妄患者さんにしか見えていないせん妄患者さんの内面を理解するためには、単なる机上の知識の習得だけではなく、擬似体験を通しての内面理解に近い形でその気持ちに寄り添う感覚・必要性を感じ取る感性が重要であると私は考えました。
そこで、私はVR技術を使うことでせん妄患者さんの、内面の理解ができるのではないかと思い立ちました。VRせん妄擬似体験システムは、視覚の歪み、実在しない人物の出現などをVR上で再現したコンテンツを作成し、せん妄患者さんの視点で感じている急性混乱と恐怖を視覚・聴覚で擬似体験できるように作成したものです(図1、2、3)。看護学生さん、医療従事者を対象にしています。視聴方法はVRゴーグル(ヘッドマウントディスプレイ)を装着し没入感が得られるVR映像を視聴します。そのことで教科書や参考書、講義だけでは理解しにくい「せん妄患者さんが見て感じている内面の世界」をリアルに擬似体験し感じることができます(下記、QRコード)。
図1 VR上で作成した患者視点から見たICU

図2 幻覚(天井に多数の小さな虫が出現)

図3 幻覚(兵士が襲ってくる)

図4 術後せん妄擬似体験用QRコード

VR術後せん妄擬似体験システムの3の目的
現在は、5年前から大阪電気通信大学大学院との共同研究で世界で初めてとなる「VR術後せん妄擬似体験システム」の研究開発とその教育活用に取り組んでいます。この研究と研究活用の取り組みの目的は以下の3つになります。
2 看護師をはじめとした医療従事者が仮想現実(VR)を通して疑似大変することで、せん妄患者さんの内面を理解する
3 せん妄看護の考え方、特に暴れられるから身体拘束を実施するという安易な従来の看護について誤った認識を根底から変えるパラダイムシフトを目指す
実際にせん妄を体験してみることの効果
このVRせん妄擬似体験システムの取り組みは世界初の取り組みであり、日本国内外で注目されています。私と大阪電気通信大学大学院が取り組んだ共同研究では、VR術後せん妄擬似体感システムを構築し、そのシステムの体験の前後で身体的・心理的変化について有用性が報告されています2)。この研究では、看護学生がVR映像を視聴する前後で心理的状態を評価した結果、感情面で有意な変化が確認され、せん妄状態の体験が学生の心理に影響を与える可能性が示唆されました2)。
実際にこのVRせん妄擬似体験システムを体験した看護学生や看護師からは「せん妄患者さんがどのような気持ちでどれほど孤独で寂しくて、不安な中で混乱しているのかが実感できました」、「せん妄患者さんが訴えていた天井に虫が出現したことやベッドから逃げようとする行動がやっと今となって理解できた」などの共感性の声が聞かれました。こうしたVRせん妄疑似体験を通して、せん妄患者さんへの声かけやかかわり方を見直すきっかけが生まれ、日々の臨床に活かされ、結果的に身体拘束実施率の低下にもつながった例も報告されています。
VRせん妄疑似体験プラグラムの教育への活用と今後の展望
海外においても、VRを用いたせん妄に関連する教育の研究が進んでいます。具体的には、VRを用いたせん妄教育プログラムが従来型の講義に比べて、せん妄に対する共感や知識の向上に効果があったことが示されています3)。この研究では、VRトレーニングを受けた看護師は、せん妄患者さんへの共感スコアと知識評価スコアがどちらも有意に向上したと報告されています。
また、VRやAR(拡張現実)を活用した教育介入プログラムでは、医師や看護師の自信やケアスキルが向上したという報告もあります。74名の医療従事者を対象とした研究では、VR/ARを用いたせん妄教育後、せん妄ケアへの自信が増し、患者さん中心のケアに対する理解が深まったことが報告されています4)。この結果は、VR体験が単に感覚的な理解を促すだけでなく、実践的なケア行動の変化にもつながる可能性を持しています。
このような教育的効果は重要であると考えます。せん妄患者さんへのかかわり方は、単に症状を抑えるだけでなく、患者さんの尊厳を守ることが求められます。せん妄患者さんがせん妄を発症して混乱しているとき、言葉での説明がなかなか理解してもらいにくく、意図しない行動を取ってしまったりすることがあります。その背景には、強い恐怖感や孤独感があることを医療従事者がしっかりと理解する必要があります。VRせん妄擬似体験は、そのようなせん妄患者さんの内面の理解、共感性を促進する有効な手段の一つになります。
また、VRはせん妄予防や症状軽減へ直接介入するツールとしても研究が進んでいます。ICUへ入室中の患者さんを対象とした系統的レビューでは、VR介入がせん妄発症リスクの低減に寄与する可能性と、ストレスや感情的負担の軽減に役立ったという結果が報告されています5)。このレビューは、VRが患者さんの環境刺激として機能し、認知機能の安定に寄与する可能性を指摘しています。
これらの研究は、せん妄という複雑な因子からなり多種多様な症状に対して、VRを単なる技術的ツールとしてではなく、教育・ケア・支援の手段として活用できる可能性を示しています。他者からは決して見えない患者さんの見ている内面を可視化して理解することは、看護の原点であり基本です。多忙な日々の臨床ケアの中で、患者さんが何を感じ、何に不安を抱いているのかを医療従事者が理解することは、身体拘束をはじめとする不必要な介入を減らすためにも重要であると考えます。
私自身、このVRせん妄擬似体験システムを開発・実装する中で、「見えないせん妄患者さんの世界に寄り添う」という看護の原点へのアプローチが可能となり、ここから新たなパラダイムシフトが確立される予感を感じています。VRせん妄擬似体験を通じて得られるものは、単なるせん妄の知識や対応技術の向上だけではなく、医療従事者が患者さんの尊厳を理解し、安心・安全感を提供できるケアの質の向上、意識そのものの変化です。せん妄患者さんの体験を医療従事者が擬似体験し、共有することで、より安全で思いやりのある看護が実現できると私は考えています。
引用文献
1)Inouye SK,et al: Delirium in elderly people.Lancet 2014;383(9920)::911-22.
2)松浦純平, 國居貴浩, 寺西紘輝, 立穴隼人, 登尾啓史. VR・HMDによる看護学生教育用術後せん妄体感システムの構築. 電気学会論文誌C(電子・情報・システム部門誌)142(5):536-542, 2022.
3)Tanja Günther,et al: Virtual reality for delirium: immersive training courses promote empathy and expertise in delirium management among registered nurses.Intensive & Critical Care Nursing 2025;91:104167.
4)鈴木みずえ,他:せん妄を発症した認知症高齢者のパーソン・センタード・ケアを基盤としたDigital Transformation(DX)教育プログラム:看護師と医師のアンケートの比較.日本老年医学会雑誌 2025;62 (1):59-69.
5)Mohadeseh Samimi,et al:The effect of virtual reality stimulation on reducing the incidence of delirium among patients admitted to intensive care units: a systematic review study.BMC Anesthesiol 2025;25(1):584.
